「有事」の可能性から目を背け続けた日本・・・新浪剛史・サントリーホールディングス社長

 3.11から10年の今思う、日本のコロナ対策が後手に回る根本的な理由

新浪剛史・サントリーホールディングス社長 特別寄稿(2)


https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/051100180/


「有事という想定から目を背けて来た」

と述べられています。

口先だけの評論家やコメンテーターの意見ではありません。

サントリーホールディングス社長です。

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これは、私も以前から思っていたことです。

イスラエルや台湾は、コロナに対しての国の行動が素早かったです。

私は、これらの国々が有事に備えていたからだろうと思いました。

常に危機感を持っている、有事に対して素早く行動する。。。

一方、日本はどうだろうか。国会、マスゴミマスコミ等のやり取りを見て、いつもそう感じています。

憲法9条があれば、他国からの脅威はないと考えているの?・・このような可笑しな議論を真面目そうに行っています(どこの国のために働いているのだろうか?)・・・

直近では、入管法改正と収容者の死亡事故は全くの無関係であるにもかかわらず、これを理由に国会を混乱させています(どこの国のために働いているのだろうか?)・・・

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全面的に賛成しますので、このことに関する部分をそのまま引用します。

引用:しかし残念ながら、日本のこの危機への対応が諸外国と比べて優れていたと評価する人は少ないはずです。給付金の配布に苦心し、ワクチンの接種も進まない。むしろ他国に劣っていると感じている人が多いでしょう。

 なぜそんなことになってしまったのか。ただ“現在の政治が悪い”というのではありません。私はその根本の原因は、私たちが、日本社会が「有事」というものの想定から目を背けてきたことに尽きると思います。

 有事対応の基本は、当たり前だと思っていたものを疑い、プランBを考えることです。しかし日本では、そもそも有事というものを想定することすら避けてきました。予見できたとしても、タブーなく徹底して議論してプランBを提示するというようなことを避けてきました。

 それが日本の勝ちパターンだったからです。戦後、日本は、地政学的には利害衝突の最前線にありながら、米国の安全保障のもとで経済活動に専念することができました。この庇護(ひご)のもとで、考えさせるよりも、言われたことを言われたとおりにやらせる金太郎あめ式の教育がなされ、大量生産時代を支える労働力を供給してきたのです。

 しかし冷戦が終結し、米中が米ソ(当時)よりもはるかに複雑に共存と対立で揺らぐ中で、日本は将来その庇護を失うかもしれません。現に、ワクチンの供給において米国は日本が期待するほど日本を優先してはくれませんでした。私自身も米国の教育に触れ、事業も展開しており、そのダイナミズムに圧倒されてきましたが、望むか望まないかにかかわらず米国がデクライン(衰退)していく可能性からも目を背けるべきではないと思うのです。

 国産ワクチンの動きが他国と比べて著しく鈍いのも同根です。米国が何とかしてくれるという期待を持たなければ、やがて現出するパンデミックという「有事」から市民を守るためにワクチンを開発できるような研究体制を維持していたはずです。今回、対応が早かった各国とも、平時に有事を想定して自国民を守るために備えています。

 起きてしまったことへの対応も同じです。日本では、法的にも社会風土的にも私権の制限が極端に難しい。マイナンバー制度が浸透していれば給付金を配るのがもっと易しかったともいわれますが、国民に背番号を振るような仕組みに対する忌避感が強く、進まなかったのが現実です。そこに有事の想定がないから、「感覚的に嫌だ」「政府に管理されたくない」というなんとなくの忌避感で進められなくなってしまう。ほかの民主主義、自由陣営の国家も、新型コロナの感染拡大を乗り越えるためにロックダウンなどを実施して大幅に私権を制限しています。これが日本にはなかなかできないのです。

 私権を制限すべきだと言いたいのではありません。起こりうる有事から目を背けず、向き合い、あらゆる選択肢について徹底的に議論すべきだということを言いたいのです。なんとなく雰囲気で合意を形成するのではなく、どのような私権の制限は避けるべきか、国民の幸福の総体を最大化するためには何をすべきか、私権の制限という選択肢を最初から取り除かず、あらゆる可能性についてタブーなく議論の俎上(そじょう)に載せて考え抜こうということです。

 日本には、新型コロナの感染拡大以外にも、深刻かつ構造的な課題や対立は実はたくさんあります。世代間の社会保障をめぐる不均衡などはその最たる例でしょう。こうした「有事」に対しても、日本全体が本当は何が課題なのかに目を背け、本質的な議論や決断をすることなく、その断絶から生まれるアンガー(怒り)に対してお金で問題を先送りすることを結局国民が求め続けてきました。日本型のポピュリズムと言っていいと思います。その結果、膨大な国の借金が積み上がってしまいました。

 新型コロナウイルスは、政治や文化の枠組みを優に超えて、生き物としての人間が人間を感染させることで増殖を続けています。だからこそ、各地の対応を見ると、それぞれの政治や文化の強靭(きょうじん)さや脆弱性が浮かび上がってくるようです。残念ながら日本の場合、特に強く見えてくるのは後者でした。ただ政治を批判するのではなく、この災いを転じて、有事に対する議論をタブーとしない社会風土をつくれないものか。

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以上です。